正義

判決が出ましたね。
最初に思う事は、この事件(、、、というよりも、この事件を含めた、此処の事件、、、)と、所謂「死刑制度」の是非をからめて考えたり話しをするべきじゃないと。
「死刑制度」の是非は此処の事件とは関係なく(此処の事件からの影響は否定できませんが)、公の場で議論すればいいことだと思ってます。
少なくとも、現在の日本には「死刑制度」が有り、条件によっては適応される。
司法の場で、人が人を殺める事を認めているのが「死刑制度」です。
今回の判決で、「死刑制度」のハードルが低くなったというような意見がありますが、それはどうでしょう?
それは、凄く感情的な意見じゃないかと思います。
司法は法に則って決断を下す場所ですから、世論の流れというのもありますが、そこは厳粛なはずですし、そうでなければいけないと思います。「死刑」という極刑を避けれない事件なのかどうかは、此所固有の事件として審議し判断される事が大切なはずです。
今回の事件、、、
裁判長の判決文を垣間見ると、被告人へのというよりも、弁護団への痛烈な批判が込められているように感じるのです。


弁護団の主張は、ほぼ全て否定された。
唯一、考慮されたのが犯行当時の年齢ぐらいでしょうか。
弁護団は「真実を追求すれば不利益になる」と、判決を批判している。
「真実」を追求する事によって、より判決が重くなる場合もあれば、軽くなる場合もあると思います。
これも、此所の事件の内容により、厳粛に判断される事のはず。
「真実」とは、なんだろう。。。
残念ながら、今の司法は「真実」を追求する場所ではないのです。
出された証拠に対して、白か黒かを判断する場なのです。
本当に「真実」を追求したのでしょうか。
裁判長は、尽く「不自然で不合理」、「嘘」、「偽り」と否定した。
確かに、それまでの6年以上の間、犯罪の事実を認めて謝罪の意を現していた。
でも、それが一変した。
御遺族の方も、それが一番悔しい、と。
被告人、、、彼は本当に6年が過ぎ、この今になって「真実」を語ろうと思ったのだろうか、、、
私には、唯一の更正の機会さえ、あの弁護団が奪ってしまったように思えてならない。
それに対する痛烈な批判が、あの判決文に込められているような気がするんです。
御遺族の方は、遺族の感情としては納得できても、死刑でまた一人の命が亡くなるのは、社会にとって不利益、、、とまで言ってるんですよ。
こんな事、普通は言えませんよ。。。
こんな御遺族の気持ちさえ、弁護団は汲み取る事なく、被告人の心を開かせる事も出来ず、今回の判決になってしまった。
最終的には、この被告人でさえ、被害者になってしまうのか?
元々、一審を支持した二審判決に問題有りとして、最高裁が審議のやり直しを命じたわけですよね?
それは「無期懲役」が妥当なのか、再度、審議しなさいという事だった。
弁護団は上告をしました。それは当然の権利だし「死刑」という後がない判決が出てしまった以上は、当然の判断だと思います。
しかし、元々の最高裁からの差し戻し理由を考えると、法廷の場が最高裁に移る事は難しいのかもしれない。
このまま棄却され、「死刑」が確定してしまうかもしれない。
もしそうなれば、被告人は、もう公の場で自らの口で話す機会を断たれてしまう。
誰が、その機会を無くした?
9年の年月が流れたのですよ。
9年ですよ、9年。。。
今回の判決。
厳粛に、重く受け止めるべきは、この弁護団も同じだと思う。

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