阪神淡路大震災から20年かぁ。
個人的に20年前と今で、一番人生で違う変化があったといえば、定職に就いた事、結婚した事、モジュラーおじさんになってしまった事、ぐらいか。
、、、とまぁ、半分冗談はさておき。
それまで関西は地震は少なかった。
というか体に感じる地震なんて、年間数件有るか無いかってな感じで、地震になんて個人的には全く意識も関心も無かった。
これが東京とかだと、遥かに体に感じる地震の回数は多いだろうし、また違う意識になるんだろうけど。
たまーに、微妙に揺れて、「おお、、、おぅ?」って。
それが、あの日から確実に変わった。
なんて言うのかね。
今の職場なんかもそうなんだけど。
あきらかに古い建物とか、パッと見た感じで阪神淡路大震災クラスの揺れが来たら、「保たないな」と感じる建物とかね。
感覚で根拠無いけど、無意識に判断する時があったりして。
まぁ、あの「揺れ」をリアルに、今だ体が覚えているからね。
「揺れ」っていうか、体が振り回されている感覚。
すると、今、揺れたら、、、ここに逃げれるかなぁ、とかね。自宅でも、あの揺れのクラスが来たら、この空間になんとか逃げれるかなぁ、とかね。そういうのは考えるようになった。
今の職場、たぶん震度5クラスで半壊はすると感じてるし。
地震の統計というか、そういうのが科学的に記録され初めてから、阪神淡路大震災が初めて「震度7」という、最強の揺れを伴った地震だったんだよね。
それ以後、「震度7」を記録しているのは、新潟県中越地震、そして東日本大震災。
この20年で、「震度7」という最強クラスの地震が3回、この日本で発生している。
100年に1度、、、っていう決まり文句なんて可愛いもんですよね。
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阪神淡路大震災。
私は大阪に住んでますから、被害といって「今まで経験した事の無い揺れ」、「一時的な断水、停電」、「棚からモノがばさばさと落ちて来た」、、、という被害というレベルでは無い話ではあるのですが、それでも十分過ぎるぐらいの経験だと。
「揺れ」っつうても、「うわ、揺れてる、大きい、地震だ!!」っという、一般的なプロセスが吹っ飛ぶ、そういう「揺れ」なんですよ。大阪に住んでいた私でさえ、吹っ飛んでいた。
揺れてるんじゃなくて、体ごと吹っ飛んでいきそうな状態。歩けないし、何かにしがみついてないと、まず立つ事すら不可能な状態だった。
部屋中の、モノというモノがぶつかり合って、もの凄い騒音と化していた。
けっこう長く揺れてたよね。
ガバっと反射的に立ち上がって、そのままタンスにしがみつく感じで、あとは頭ん中は真っ白だったと思う。
揺れが治まって、フト目線をTV台の方に向けると、ビデオデッキのデジタル時計が消えてる。あぁ、停電だなぁ、と。
隣に年配夫婦が住んでらしたので、とりあえず声を掛けに行ってみたら、お二人は大丈夫だったんですけど、部屋のタンスが倒れていた。寝室には使ってない部屋だったので、怪我は無かったようでしたが、このタンスの下敷きになっていたらと思うと、ゾッとした。
戻って来て、とりあえずラジオを付けてみる。地震が発生して、まだ10分も経つか経たないかなので、具体的な情報は流れて来ない。とにかくワーワー騒いでる感じに聞こえるラジオ。
着替えて部屋とか整理を始めていたら、「えっ?!」と耳を疑うようなニュースがラジオから聞こえた。
「阪神高速が倒壊している模様」
はぁ?
どういうコト?
全く想像出来ない。
幸い、停電や断水は一時的なものだったようで、直に使えるようになった。
TVを付けて、あの阪神高速が、ずわーっと倒れている映像を見た時は、さすかに「これは大変なコトになってる」と。
3週間ぐらい後になってから、友人と三ノ宮に入ったんですよ。
まだ直通の交通機関が復旧してなかった。
臨時バスと阪神電車、 JRを乗り継いで。確か大阪から3時間ぐらい掛かった記憶がある。普段なら、JRの新快速で大阪から30分も掛からない距離なのに。
だるま落とし状態のビルや、Vの字に折れ曲がった道路、、、歩いていて妙な感覚になって来てね。
友人と、「あのビル、傾いてるよなぁ」とか話をしていて、「いや、奥のビルが傾いてるんじゃないの」とか。で、あっ、、、と思って。
今、歩いてる道自体が既に「傾いて」いるんですよ。もはや、どれが正常かなんて判断出来ない。平衡感覚が麻痺してる。
一ヶ月後ぐらいだったかな。
当時、大阪共立という会社で、音響関連のアルバイトしてたんですよ。
TV番組とかイベントやコンサート等で、音響関連の仕事。
大阪読売テレビの番組の仕事も幾つかやってて、ある日、震災報道で現地入りしているスタッフが休み無しで動いてるから、助っ人で1日変わってやって欲しい、という仕事が入って来て。
それで、読売テレビで報道部の人達と、再び三ノ宮へ行く事になってね。
一ヶ月ぐらいは過ぎていたけど、今だ陸路はままならないというか、救援物資や緊急車両が優先という事で、なんと大阪港から船で三ノ宮に入ったんですよね。
ニュース番組の生中継等で、音声のサブで動いてた。
昼間のニュースで、まだ読売テレビのアナウンサーだった、辛坊治郎さんがリポートで来てて、避難所の学校からの中継の準備してたんだけど、辛抱さんの顔は知られているから、避難所の方々が「ちゃんと現実を報道して欲しい」と、詰め寄っていたのを覚えてる。
夜のニュース、、、22字ぐらいの中継だったかな。
山の方を登った高台からの中継という事で準備してたら、イノシシ親子と出会ったりしてたんだけど、その頃は20時ぐらいで、アナウンサーの方も「神戸の街明かりが戻って来た感じを伝えたいですね」なんていう話をしてたんですけど、いざ本番の22時ぐらいになった時、けっこう街中の明かりが消えてて(爆)、、、
夜は三ノ宮の港に大きな船、、、貨物船か何かだと思うんですけど、そこに日本全国や海外から来た報道陣等が寝泊まりしていました。私もそこで一泊。
次の日の午前中までのニュース中継の手伝いをして、大阪に戻ったのですけど。
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20年、経っちゃいましたが。
仕事で遊びで、三ノ宮方面には、ちょくちょく行きます。
神戸一の繁華街、三ノ宮は華やかですが、尼崎や芦屋といった住宅街を通ると、「あれ、この空間、なんだったんだろう」的な場所が、まだあります。震災前、ここには何があったのだろう、と。
地震も含めて、よくもまあ、こんな小さな国で、次から次へと自然災害が起こるものだな、と。
そこからの経験値は世界一だとも思う、皮肉な話ですが。
Dr.コトー診療所と実体験
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