10年目ですか、阪神・淡路大震災。私はその時に住んでいた実家も、今の住まいも大阪市内だったので、特に被害というものは無かったのですけど、やはり、あの揺れは尋常じゃなかった。
実家は大阪市内とはいえ、けっこう端だったので神戸からは随分と離れている。でも、あの部屋中がシャッフルされているかのような、隣同士に並べてあったタンスと本棚が激しくぶつかり合い、棚に置いてあったものは全て落ち、「地震だ」と考える暇さえなかった、あの瞬間は本当に恐ろしい。
地震後、ビデオデッキの時計を見るも消えている。「あ、停電だ」と理解した。とりあえずラジオと懐中電灯を探し出してきて、しばしラジオに耳を傾けていましたが「大きな事故の報告は無い模様」という主旨が流れていた。
母が、隣の人は大丈夫だろうか?と心配するので、様子を見に行く事に。隣は年配のご夫婦二人暮らし。行ってみると、少し背の低い洋服タンスが倒れていた。幸いに、その部屋には誰も寝ていなかったので怪我も無く、タンスを起こして戻る。
今、考えてみると、、、大阪市内とはいえ、タンスが倒れていたのだから、少なくとも震度3や4というレベルの揺れでは無かったんだと思う。大雑把には大阪市内は震度4ぐらいだったと思うのだけど、実際にはもっと揺れていたはずだ。
しばらくして電気も復旧し、TVをつけると。。。
阪神高速が、、、
倒れてる。。。
しばし、唖然とする。
神戸に基地局があるサン・テレビにチャンネルを合わせるも、放送がストップされている。
震災から2週間ほど経った頃、友人と三宮に入った。
普段なら、大阪・梅田から電車で30分ほどなのに、電車と臨時バスを乗り継ぎ2時間かかった。
大通りはVの字に真っ二つに折れ曲がり、TVにも何度となく映っていたダルマ落とし状態のビル群を観て回る。これが朝9時を回っていたら、どういう事になっていたのか。。。
歩くうちに、友人と「あのビルは傾いているよな」、「いや、手前のビルが傾いてるんだよ」、「、、、これさ、道自体が傾いてるって」という会話になり、平衡感覚が変になってきたのを覚えている。
当時、私は某会社の音響スタッフとして働いてました。
大阪・読売テレビの音声スタッフとしてかり出され、読売テレビや日本テレビの報道スタッフと、とある河口へ。そこに大きな漁船っぽい船が近寄ってくる。陸路からの移動が不可能なため、報道陣の多くが海路から神戸入りしていたのです。船で再度、三宮に入った私は読売テレビ系列のニュース番組の音声を手伝う。
夜は他の報道機関等のスタッフと、港に停泊させている貨物船の船内を宿がわりに使っていた。
なんとも、色々と思い出す。
10年経っても、兵庫県知事は「復興宣言」はしませんでしたね。
実際、一人一人の生活となると、とても復興したといえないのが実感なのでしょう。
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