今から28年前。1992年〜1993年に掛けて、約2ヶ月間の駆け足で巡った日本一周一人旅を、当時の旅日記と残っていた資料、そして遠くなった記憶を頼りにアーカイブ化していきます。
ただ、さすがに記憶が曖昧なのと、28年前にもなるので、もう今は存在しない場所や建物、宿泊施設。また廃止された路線等もあるかと思います。また地図を載せている場合も、正確な移動ルート等を現していません。
アップしていく写真も、今から28年前のプリントをスマホで撮影しています。現在とは様子も変化している事でしょう。
このアーカイブ化していく情報は、全て28年前の情報となります。
当時の事を、旅日記をメインにして簡単にまとめて行きますが、もしかすると記憶違いな事を書いてしまう可能性がありますので、ご理解頂ければと思います。
1993年10月19日(火) / 晴れ
朝、起きると、、、うーん、晴れ。
晴れ!!
さっぱり、晴れ!!
これだけ晴れるのは久しぶりだー
広島駅で荷物をロッカーに入れて、朝御飯はロッテリア。
さて、平和公園に行くには路面電車で宮島行に乗る。
乗り場に向かうと、ホームが2つある感じで、一番先にあるホームへ。
少し待って宮島行が来たので乗る。
3両編成で長い。車掌さんが二人ほど乗っていて、ドアの開閉や案内、両替をしていた。
20分ほどして原爆ドーム前駅に到着。
降りると、もう目の前に原爆ドームが見える。
原爆ドームを回り込むようにして、川沿いを歩く。
川には遊覧ボートも出ているみたい。
少し歩くと、学徒動員の追悼碑があった。
川を渡って平和公園に入る。
そのまま真っ直ぐ進むと、決して消えることのない炎、平和の灯へ。
そして、広島平和都市記念碑。
正面には広島平和記念資料館本館が見える。
資料館の方へ歩いて行くと、沢山の鳩がいて、左へ右へ飛び立ったりして、沢山の鳩が一斉に飛び立つので、歩いている人にぶつからないのか、と思うほど。
資料館に入ると、学生が沢山といて、こりゃゆっくり観れないかなと思ったので、原爆が投下された当時の平和公園周辺の模型と、その上空に原爆が炸裂した高さに赤い球がある所で、少し待つ。
しばらく待っていると、だいぶ空いて来たので、資料館内を順番に観て行く。
直接被曝して、皮膚や全身が焼け爛れている人の模型や、そんな人達が身につけていた衣服、、、衣服には今だ生々しく感じる血の後?のようなものが残っている。
同じく身につけていた時計やメガネ、弁当箱、下着や学生服。
そして、人の爪や皮膚、内臓や腕、、、
中学だか高校の教科書に載っていた写真で記憶に残っていた、熱線で人の影が壁(床?)に焼きついた、まさにその本物が。
ビデオでの色々な説明とかを観て、資料館を出る。
なんとも言えない気持ちになる。
展示される資料等は、定期的に入れ替わる事もあるようです。
広島駅に戻って、次は宮島口へ。
切符を買おうと思っていたら、突然、おばちゃんが「ちょっと兄ちゃん、これどうするの?」と聞いた来た。
どうも切符の買い方がわからないみたい。
1,870円の切符を買いたくて2,000円を入れたのに、そもそも1,870円のボタンが無い。別に目的地のボタンはあったけど、押しても反応が無い。
なんだ、こりゃ。
私も、わかんない。
一度、取り消しをしてから、駅員さんに聞いた方がいいですよ、と。
さて。
自分は宮島口駅まで、、、と思っていたら、フェリー込みで切符が買えるみたい。
そうか、フェリーもJRの運行なんだ。
宮島口駅に着いて、荷物をロッカーに入れて、とりあえず駅構内で昼御飯、うどんを食べる。
駅から歩いて直ぐ、目の前にフェリー乗り場がある。
その手前には、路面電車の宮島口駅がある。そうか、路面電車でも来れるんだね。
フェリー乗り場の桟橋から観る、宮島は予想していたより大きな島、という感じで、海の中に建つ鳥居も見えた。
フェリーが到着して、、、おもいっきり桟橋にぶつかって揺れる、、、
おいおい。。。
フェリーには既に購入している切符を見せるだけで乗船できた。
出航してから10分ほどで、宮島に到着。
宮島側のフェリーターミナルも、宮島の神社に合わせた造りになっていた。
フェリーから降りると、、、あれ、鹿がいる。
それも沢山、、、なんだか奈良みたい。
海沿いに歩いて行くと、嚴島神社の入り口に到着。
ここから赤と白の回廊がクネクネと続く。
中を歩いていると、「写真、撮ってくれますか」と何組かにお願いされたので、撮ってあげる。
回廊は幅も広くて、凄く綺麗。
真ん中辺りに来た所で視界も開けて、本堂かな、があって、本堂の前の海には、あの有名な海の中に立つ鳥居が目の前に。
そのまま反対側の回廊へ。
回廊は一方通行みたい。
平成3年の台風の被害で壊れた部分は、今も修復中の箇所があった。
嚴島神社を出て、弁天様に立ち寄ってから、お土産屋さんが連なる道を通って戻る。
途中、五重塔があるみたいだったので階段を登ると、大きな建物が。
豊国神社、本堂の中が広くて、床と柱、って感じで、山側の五重塔と、反対側の海側の開けた眺めが凄く気持ち良かった。
桟橋に戻ったら、ちょうどフェリーが来ていたので乗る。
風が気持ちいい。
宮島口駅に戻って、荷物を回収。
さて、これからゴールの大阪へ向かうのとは逆方向、再び下関を目指す。
まずは1時間ほどで岩国駅へ。
岩国駅から3時間半ほど、ずーっと海を見ながら、下関駅に到着。
下関には9月23日に、一度通っている。
下関に到着した頃には、もうどっぷり日も暮れて夜。
次の電車、寝台特急『さくら』までは、まだ2時間ぐらいは時間があるので、一旦、荷物をロッカーに入れて晩御飯。駅前とかウロウロしていたらゲームセンターあったので、少し時間を潰す。
駅に戻る途中、明日の朝御飯にとパン屋さんに入ったら、まもなく閉店時間という事で、全品安い値段になっていた。
20時45分、寝台特急『富士』が出発したぐらいで、ホームへ入る。
寝台特急『富士』は、2009年に廃止となりました。
そして、寝台特急『さくら』が定刻に到着。
ここで、先頭の電気機関車の変更で5分ほど停車。
寝台特急『さくら』は、2005年に廃止となりました。
えーと。
私は9号車の8番下、、、B寝台なので二段ベッドが向かい合った4人スペースが1ブロックになった車両だ。
ベッドには浴衣が置いてあった。
隣のベッドには、既におじさんが浴衣姿で雑誌を読んだりして、寛いでいた。
そして、下関を出発。
一路、東京へ向けて。
しばらくして、隣のおじさんと色々と話す。
小倉から乗って来られたそう。
「一人で日本一周?、いいね、若いうちにしか出来ないよ」
「22歳?、そろそろ将来のことも考えないとね」
「何時もは新幹線なんだけど、たまにはゆっくりもいいね、18年ぶりかな」
話しながら、稲荷寿司とちくわをくれた。
「仕事だけが人生じゃないからね。若い時に、君のような事やりたかったよ」
「でも、時代が許さなかったからなあ」
と笑って。
日本一周、、、
人に自慢出来る事でもないし、うーん。。。
あと、なんか色々と話をした。
「じゃあ、明日」と、おじさんはベットに入った。
私もベットに入って日記を書く。
時間は22時半を回っていた。
さて、そろそろ寝るか。
日本一周の日記は、ここで終わっています。
1992年の前半、そして1993年の後半、トータル2か月間の日本一周一人旅は、これで終了となります。
この先、寝台特急『さくら』に乗った私が東京へ向かうわけですが、その事については一切、日記には書かれていなく、28年も前の事である為、ほぼ記憶がありません。
次の日、東京に着いた10月20日。
私の中に残る記憶は、2つしかありません。
1つは、この日本一周スタートまもなくで訪れた、五反田にある電波新聞社に再び訪れた事。
そして、北海道や熊本、沖縄で、電波新聞社が発刊していた『月刊マイコン』読者繋がりの人達に出会えたり、お世話になったりした事。
なんだか、日本一周終了した事を伝えたい、って気持ちがあった事。
今から考えると、パソコンや電子機器の専門情報誌を出版している会社に、一読者がなんの関係もない日本一周とか一人旅とか、そんな事で訪問して、お相手して下さって、迷惑だっただろうなあ、、、なんて思うばかりです。。。
そして、2つ目は。
東京に着いた当日、帰りは新幹線で新大阪駅まで帰って来た事。
あとは記憶にありません。
改めて。
これにて、日本一周一人旅アーカイブの本篇は終了となりました。
まだインターネットも無く、もちろん携帯電話さえ無い時代。
ある程度のルートは決めていたとはいえ、行き当たりばったり感もある中、旅先で出会った人達。
日記には、ちょっと会話しただけであろう人を記述している部分もあったり(このアーカイブでは、細かい部分の文面までは再現していません)、日記には書かれてないけど、色々な人との出会いもあったはずです。
今のようにSNSがあれば、そうやって出会った人達との交流も続いたかもですが、そんな便利なものが無い時代、もう二度と会う事もないかもしれない出会い。
色々な事がありました。
そして記憶にも日記にも残ってない、そんな出来事も沢山とあったはず。
改めてネットで情報を確認したり、Google Mapで実際に通ったルートを再現しながら、再び仮想現実の世界で日本一周した気分です。
本篇は終了しましたが、また番外篇を少し書いていこうと思います。
年明けも、もう少し続きます。
移動距離 : 約1,884km
広島駅 〜 原爆ドーム 〜 平和記念公園 〜 広島駅 〜 宮島口駅 〜 宮島 〜 厳島神社 〜 大願寺 〜 豊国神社 〜 宮島口駅 〜 岩国駅 〜 下関駅 〜 東京駅 〜 五反田駅 〜 電波新聞社 〜 五反田駅 〜 東京駅 〜 新大阪駅
Google Mapでは途中から新幹線の利用になっていますが、寝台特急乗車ルートなので、全て在来線を通って、東京まで行っています。
注意 : Googleマップ仕様の関係上、下車等せず通過した地点も記載したルートになっています。また、当時の正確な移動ルートを再現しているものでもありません。〝大凡〟のルートになります。
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