自分の心の中を整理

あの事故以来、尼崎−宝塚へ抜けるルートであるJR東西線が、慢性的に5〜10分ほど列車が遅れている。いきなり朝の8時台で遅れていて、酷い日には帰りの夜22時台でも遅れている。
思うに、この路線を使う人がイッキに増えたのと、神経質なほどの安全運転が一番の原因だと。
ふと気が付いたのですが、そうすると、本当ならば今より列車と列車の間隔を、少なくとも5分以上は空けて運転させないと、十分な安全が取れないんじゃないのかな、と。
新聞等の記事を見ていると、事故の最大の原因はやはりオーバースピードだとするものが多い。たぶん、そうだと思う。事故後、まもなくのJR西日本の記者会見で「置き石の可能性」を語っていたのも、その時点で既に幹部の間では「いかに責任を回避できるか」という議論がされていたと思えてならない。信楽高原鉄道の事故でも、JR西日本が責任を認めて正式に謝罪するまでに、何年かかったことか。
“死人に口無し”、運転手は死亡している。
運転手によるミス、、、というような事でも終わって欲しくもない。
また、「特異な事故」なんていう台詞も、言語道断だ。
起こってしまった以上、「特異」じゃない。同じ条件が重なれば、また事故は起きる。
いきなり話題は変わるのですけど、、、


80年代から90年代初めにかけて、モータースポーツが好きでよくTVでレースを観ていました。
特にF1は、毎回欠かさず観てました。
時速200キロ、場所によっては時速300キロちかいスピードで駆け向ける。
何度となく壮絶なクラッシュも観ました。
クラッシュすると、車の大半の部品は飛び散り、車体の原型をとどめないぐらい破壊されつくします。
これは強い衝撃に対して、部品をバラバラにさせる事によって、その衝撃を分散させる役割があるわけですよね。結果的にドライバーへの直接的な衝撃を和らげる効果になっている。
で、F1というかフォーミュラを知っている人には常識ですが、そんな部品が飛び散り原型すらとどめないぐらい破壊されても、ドライバーが乗っているコックピットはびくともしない。これは、人が存在できる空間を確保する意味があるわけですよね。
強い衝撃を分散させる役割と、空間を確保する役割。ほとんど生身同然で時速200キロでクラッシュしても、一命をとりとめる事が出来る場合が多いのは、そういう工夫があるからなんだと思います。
今回の事故では、どうだったのか。。。
人が存在していなければいけない空間が、無惨にも破壊されている状態では、他のいかなる安全対策も意味は無い。
列車が、あんなふうに建物と衝突するなんて、「特異」ですよ、、、とか言っていると、また数十年の間に惨事は起きますよ。
私は、毎日、事故を起こした同型の車両に乗っているんですよ。
あの事故を起こした列車も、本当なら私が通勤で通っている、この東西線に乗り入れて来るはずだったんですよ、尼崎から。。。

帰宅時にPalm(CLIE TH-55)で撮影、同型車両です。
自分が事故と遭遇していた可能性だって、ゼロとは言えないと心底実感しました。。。
被害者の方々への対応や、今後の安全対策への対応、誠意ある対応をして欲しいと思う。

コメント

  1. duf_blog より:

    JR西日本 脱線事故と日勤教育

    旧国鉄体質が抜け切れていなかった…。そのひずみがこのような形で大きく出てしまったのではないでしょうか。 それを助長する形になっていた大きな原因が「日勤教育」と言われる…

タイトルとURLをコピーしました