今年、2012年2月23日で、ちょうど母が亡くなってから10年目になる。
母が癌と向き合った1年は、色々とあったな。
今年の春、気候が良い時期になったら、私が結婚するまで住んでいた町に、久々に、、、10年ぶりに訪れて散歩したいな、と思ってる。
もの心ついた頃から、結婚するまで。
保育園に小学校、中学校まで同じ町にある。
どうかな、町並み、変わったかな。
あの本屋、あの市場は、今でもあるのかな。
まあ、楽しみにしておこう。
そんな母が癌と向き合った1年を、思い出すままに徒然、書いてみたいと思います。
つらつら記憶を頼りに書いていたら、やっぱりというか長文になってしまいました。
相変わらず、まとまりが無く、誤字脱字連発かと思いますが、まぁ、適当に斜め読み程度でお願い致します。
ホント、長文なので途中で嫌になると思います(爆)
私が結婚したのが、2000年。
そして、長い間別居生活が続いていた、母が離婚。
これで色々な事柄に一段落が着いたかな、という矢先に母の体調の異変に気がついた。
私の妻が一段落したし、専業主婦だった母なので、今まで全く健康診断とかやった事が無いので、一度半日ドックでも行ってみたら、と。
受診したところ、肺に影が確認された。
その為、検査入院して生体検査をしてもらった。
結果は、恐れていたとおりだった。
肺癌。
それも初期じゃない。
ステージ3B、末期に向かっている状態だった。
母はヘビースモーカーだった。
でも、何時ごろからだろう。ピタッとタバコを止めていた。
しかし、思えば2.3年前から、よく咳をしていた。
その咳に、うるさいなぁ、と思う事もあった。
既に、この時、癌は進行していたんだろう。
この時、私が「病院に行け」と言っておけば、結果は変わってたのかもしれない。これだけは、10年経った今でも思う。
母は泣いていた。
自分もか、と。
母の家系は、癌で亡くなっている人が多かった。
私自身、強く印象に残っているのが、母の兄の事です。
母の実家、長野県は伊那、夏に帰ると私をよく可愛がってくれました。
そんな母の兄も、癌で亡くなった。
最後は全身に渡る癌の痛みを緩和する為、モルヒネで昏睡状態になっていた。
それでも、数十分に1回、発作が始まって数人掛かりで体を押さえないと、ベッドから転がり落ちてしまうような、そんな状態だった。
最後は発作も亡くなり、静かに息を引き取った。
一人の人間の命が、目の前で消えて行く瞬間、初めての体験だった。
不思議な感じでした。
確か、、、母の妹さんも10年ぐらい前に亡くなっているのですが、癌だったというような話を聞いた記憶があります。
それだけに、とうとう自分も癌になってしまったのか、という強い思いが、母にはあったんだろうと思います。
もちろん、直ぐに入院して治療をした方が良いという事で、ベッドの空きが出るまでの間、何度か検査入院をしていました。
私の妻が、肺癌なら大阪森ノ宮にある成人病センターの方が、より専門的な治療をしてもらえるかもしれない、という情報を調べて来て、所謂「セカンドオピニオン」してみてはどうだろう、という事になった。
しかし、母は最初、消極的でした。
半日ドックから検査入院、ずっと同じ病院でしたから。
ここで別の病院に行く事に、申し訳ない気持ちがあったみたいです。
でも、主治医の先生にセカンドオピニオンの相談をしたら快諾してくれて、直ぐにカルテから全ての検査結果やレントゲン写真、そして紹介状を用意してくれました。
それを持って、母と成人病センターに行きました。
成人病センターで先生がカルテ等に目を通して、「どんなお話を聞きましたか?」と尋ねてこられました。
たぶん、成人病センターの先生からみても、既に手遅れで余命を考える段階だったんだろう、と思います。
成人病センターでベッドの空き待ちとなると、この時は3ヶ月ぐらい掛かるという話だった。
成人病センターの先生も、今まで通っていた病院でも同じ治療を受けれる事を説明してくれました。また、出来るだけ早く入院して治療した方が良い、と。
しかし、ここでまた母が困り出したんです。
後ろめたい気持ちで前の病院を出て来たわけで、また前の病院に戻るという事になれば、どんな顔して戻ればいいんだろう、と。
昔の人なんですね。
すると成人病センターの先生が、その今まで通っていた病院に電話をして下さり、直接、主治医の先生と話をして頂き、、、
そんな事は気になさらず、前の病院に戻って直ぐに入院して治療して下さい、と。
主治医の先生もそうなんですが、この時の成人病センターの先生も、限られた選択肢の中で母の残された時間を一番有効に使える選択肢を選んでくれたんだな、、と今は凄くそう思います。
そして、いよいよ、母の入院。闘病生活が始まった。
いつ頃だっただろうか、2月が3月頃だったかな。
うーん、でも「闘病」って言葉、どうもしっくりこないね。
あまり好きな言葉じゃないな。
病と戦って、勝ち負けの選択があるならいいけど、負けの選択しかない場合、果たしてそれは「闘病」と言えるのだろうか、と。
いや、何を持って「負け」と言えるのか、、、
入院して、改めて精密検査を受けた。
肺癌は、かなり進行していて広範囲に広がっているようでした。
その為、主治医の先生も放射線治療の判断が難しいようでした。
広範囲に放射線治療すれば、それだけ健康な細胞まで破壊してしまう。
結果的に、それは命を削ってしまう事になってしまう。
その前に、抗癌剤で可能性を、という話になった。
2種類だったかな、抗癌剤を投与しました。
もちろん、副作用もあるので、抗癌剤を投与する数時間前から、時間を決めて副作用を抑える薬を飲んでいくんです。
この1回目の投与、実は思ったほど副作用が無かったんです。
確かに、よく言われるような吐き気や食欲が無くなったり、間接の痛みが、、、という事は多少あったようですが、それ以上の症状は出なかったようでした。
それから1週間ぐらいしてからだったかな、効果を確認する為の検査を受けた。
結果は思わしくなかった。
100歩譲って、現状維持か少し減った、と言えるか言えないか、という程度だった。
抗癌剤治療で効果があった、と言えるのは、癌細胞の3/1でしたっけ? かなりの量が死滅した事を確認できないと、そう判定できないそうなんです。
しかし、母の肺癌は全く減っていなかった。
2回目の抗癌剤治療を検討する話を主治医の先生としました。
一番効果があるであろう組み合わせが、1回目の抗癌剤治療でした。
2回目となると、別の薬の組み合わせとなりますが、効果が期待できる可能性は低くなってしまう。もちろん、それはやってみないとわからない。
母も2回目の抗癌剤治療を希望したので、2度目がおこなわれました。
そして、話に聞く、抗癌剤による強い副作用に襲われるのです。
髪の毛は、ほぼ全て抜け落ちてしまいました。
歩く事もままならないぐらいまで体力を奪われていました。
そこまでして耐えた2回目の抗癌剤治療でしたが、結果は駄目でした。
1回目の抗癌剤治療で、思ったほど副作用が出なかったのは、きっと本人に十分な体力があったからなんだろう、と今は思ってます。
2回目となると、とても体が保たない、、、という事だったのではないか、と。
どうしたらいいんだろう。
そんな気持ちでした。
そして、また主治医の先生とこれからの事について話し合いをしました。
3回目の抗癌剤治療をするのか?
母は、「したくない」と言いました。
主治医の先生も、「薦められない」という答えだった。
母は末期に近い肺癌ではあったけど、日常生活は普通に出来る状態でした。
特に食べ物とか、制限があるわけでもありません。
抗癌剤治療となると、1週間以上の入院をする必要があるし、あの堪え難い副作用と戦わなくては行けません。癌と戦わなくちゃいけないのに、副作用と戦っている。それで結果も出ないのであれば、本末転倒な話なのです。
でも、じゃあ、どうしたら?、、、
ここで主治医の先生から意外な話が出て来ました。
「出来るだけ入院せずに普通の生活をしてもらって、何か症状が出て来たら、それを治療するようにしましょう」、と。
残された時間、抗癌剤治療で「入院」という目的で時間を消費するのは、母にとっては貴重な時間を奪われて行く事になる、と。
この時、私には、こんな考えがありませんでした。
なんていうのかな、、、
私は、「癌」という病気の事ばかり考えていた。
でも、主治医の先生は「時間」を考えていた。
この時点で、こういう方向や考え方もあると言ってくれた事は、今になって思えば凄く助かったな、と。
母も、とにかく病院、、、とりわけ病院の食事は嫌いでしたから(笑)、食事制限は無かったので、入院中はけっこう色々と買っていったけな。妻も色々と料理を作ってくれたし。
あと、主治医の先生が、これはたまたまなのですが母と同じ長野県伊那の出身という事で、母も主治医の先生を凄く信頼していました。
抗癌剤治療をストップする代わりに、必要最小限の範囲だけの放射線治療を受ける事になりました。その後、2.3度の放射線治療を受けたのですが、結局のところ、抗癌剤治療と同じで体に大きな負担となるんですよね。
夏を前にして、母は退院をしました。
その前に、病院内の散髪屋さんでカツラを造ってもらいました。
凄いね、カツラなんて全然わからない。
母も、かなり気に入っていた様子だった(笑)
定期的に通院しつつ、癌が肺を圧迫する事で呼吸が少ししんどいようでしたが、自宅で普通の生活が始まりました。
ちょうど、この頃。
母が退院したという事で、母の実家からお見舞いがてら大阪へ遊びに行くよ、って長野から連絡があった。
長野から遊びに来る日の早朝、私の自宅に電話が鳴った。
妻が出て、驚いた様子で、「お母さんに何かあったのかな?泣いてるんだけど、、、」って、私に電話を渡してきた。
?
なんなんだろう。
電話に出ると、確かに母は泣いていた。
声にならない声で、何か言ってる。
なに?なに?、どうしたの!!
「Kが、Kが死んだって、、、」
?
はぁ?
Kさんが、どうしたの?
え、、、なに、それ。
なにっ!!
それっ!!
Kさんとは、癌で亡くなった母の兄夫婦の長男でした。
私も、今回の母の事で唯一、相談出来る人でした。
大阪へ遊びに行く人達を見送った後、農作業に出て、そこで事故にあった、、、って。
トラクターで斜面を移動中、脱輪して横転。トラクターの下敷きになってしまった。
山の中で、一人で作業していたので発見が遅れてしまった。。。
今、大阪に向かってる連中に知らせたら動揺して危ないから、大阪に着いたら事情を説明して、直ぐに戻って来てくれ、、、という事だった。
とにもかくにも、私は母の所へ向かった。
母とみんなの到着を待っている間、言いようの無い堪え難い時間だけが過ぎて行った。
お昼前に、長野から亡くなったKさんの母と妹夫婦が到着した。
「遊びに来たよー」
満面の笑顔で。
とにかく、部屋に上がってもらい、、、
そこで、母は我慢しきれず泣き崩れた。。。
「Kが亡くなったって、、、」
時間が凍りついた。
何が起こったのか、理解できない感じだった。
だって、ほんの4.5時間前に見送ってくれた人が、死んでしまった、、、って。
Kさんのお母さんも泣き崩れ、妹夫婦さん達も「嘘でしょう、嘘、、、」って、直ぐに長野へ連絡をとった。
しかし、現実だった。
こんなことってあるのだろうか。
勘弁してくれよ、こんなのドラマの中だけで十分だ。
神様なんていないだろ、この野郎っ!!
私と母を乗せて、直ぐに長野へ向かった。
長野の自宅が見える、その時まで「何かの間違い」って、そんな言葉が何度も出た。
そして、自宅が見えた瞬間、全ての希望が打ちのめされた。
慌ただしく、お通夜の準備をしている。。。
あぁ、、、本当なんだ。
私も、そう思った。
Kさんの奥さんは少し放心状態になっていた。
突然の死なので、Kさんの携帯電話に連絡が入って来たりする。
それを1つ1つ事情を説明する奥さんの姿は、あまりにも痛々しかった。
お子さんも、まだ中学生になったばかりの長男と小学生の長女の二人。
長女の小学校の先生が訪れた。
ちょうど、外に出ていたのは私だけだったので(とても家の中に入れる気持ちではなかった)、その小学校の先生は私に挨拶をして、お供え物だけを手渡して来た。
上がって行って下さい、、、と言ったのですけど、色々と今は忙しくされていると思いますので、、、と言って、帰って行かれた。
お通夜、お葬式、、、そして先祖代々の墓へ。
瞬く間に時間が過ぎて行く。
いつも思うのですけど、数時間前まで生きていた人が亡くなって、その数十時間後には骨と灰になってしまってる。
これは、なんなんだろう、、、と。
祭壇に手を合わせて、今までにない感情が沸いて来る。
本当に腹立たしい。
腹が立つんです。
悲しくなんかない。
とにかく、腹が立つ。
「なんで、死んだのよ?」と。
ムカムカしていました。
お葬式に出て、腹が立つなんて、こんな経験は初めてだった。
お葬式が終わっても、何が何だか、よくわからない状態でした。
でも、私も何時までも仕事を休んでられません。
お葬式が終わった、その足で大阪へ帰って来ました。
母は、それから一週間ほど長野に滞在していたと思います。
この頃から、私の中でおぼろげに、ある事が気に掛かるようになりました。
母が亡くなった後の事です。
母は、助からない。
それはわかってます。
年を越せないかもしれない、そんな覚悟もありました。
母は離婚しました。
姓は結婚した時のままですが、向こうのお墓に入る気持ちは無いだろう、と、なんとなく思っていました。
母は、もちろん実家、長野は伊那が好きでした。
しかし、若い頃、家を飛び出す形で大阪に出て来たような話を聞いた事もあり、ちょっと後ろめたい気持ちを持っていたようでした。
もちろん、今の母の実家に暮らす方々に、そんな気持ちを持ってる人など皆無なのですが。
で、ふと思ったんです。
きっと、田舎に帰りたいんだろうな、と。
母が亡くなったら、そのお墓は、長野は伊那に建てる事は出来ないだろうか?、と。
そんな気持ちが強くなって行きました。
夏も終わる頃、母は二週間ほど長野に帰る事になりました。
きっと、最後のつもりだったのかな、と。
長野に帰るにあたって、もし症状が急変した場合の事を考えて、主治医の先生が長野の病院で直ぐに診察してもらえるよう、紹介状を書いて頂きました。
母が長野に帰省している間、ある意味では私にとっても少しだけですが、休養でした。
当時、私が勤めていた会社には夜勤がありました。
普通に、昼間働いて夜に寝る週はよいのですが、昼夜逆転している週は精神的にも少なからず圧迫感が多かったと思います。
昼間、自宅で寝る時は、必ず携帯電話と自宅の子機電話を枕元に置くようにしていましたし、夕方は少し早く起きて病院へ見舞いに行ったり、夜勤明けで見舞いに行ったり。
まあ、若い頃はいいんですが、やはり基本的に夜勤は体力的にも精神的にも疲れは大きいものです。
母が長野に滞在している間、やはり体調が悪くなったようで病院に連れて行ってもらったそうなんです。そこで最初、待合室でけっこう待たされそうな気配だったらしく、紹介状を出したら、先生が飛んで来て、直ぐに診察してもらった、、、なんていう話を後になって聞きました。
母の主治医の先生は、呼吸器内科の部長さんで、まぁ、その科のトップの人。病院自体も名の知れた大きな病院でした。
その主治医の先生は、先にも書いた通り、ここ地元は長野は伊那の出身。
たぶん、長野の伊那、それもそこそこ大きな病院となると、この主治医の先生の名前を知っている先生方もいるんだろうな、と(笑)
丁重に診察してくれたそうです(笑)
季節は秋になり、母も定期検査と放射線治療で数日感の入院、後は退院して普段どうりの生活という日々を送っていました。
しかし、母の体は。ステージ4に。
最終段階に来ていました。
末期癌。
癌細胞は喉を喰い破り、食道の方に出て来ようとしていました。
その為、以前よりも遥かに呼吸がしんどそうでした。
更に、その食道から何度か吐血をするような状態になっていました。
合わせて内臓疾患の症状も出始めていました。
痛みも多少あるらしく、痛み止めで凌いでいました。
私は再び、お墓の事を考え出していました。
どうにかしなくちゃいけない。
「癌」を、もうどうすることもできない。
でも、この「お墓」の事だけは、なんとかしたい。
調べてみると、伊那の市営墓地があった。
条件は、伊那市在住か市内で仕事をしている事だった。
私は、母の兄夫婦の長男、この夏に亡くなったKさんの妹夫婦に相談してみる事にしました。
申し込みや手続きには、どうしても伊那市在住等の証明が必要でした。
必要な手続きをしてもらって、それ以外の全ての経費を私が出すので、なんとか墓地を確保できないか、と考えたのです。
電話で相談してみたら、一度、長野に来てゆっくり相談しよう、と。
その妹夫婦は、市営墓地よりも、出来れば母方の先祖代々の墓に入れてやれないか、と思っていたそうなんです。
母の両親、母の兄弟、そしてKさんが眠る、同じお墓に。
しかし、それを実現するには、母方の本家の了承が必要です。
正直、私は、それは無理だろうな、と思っていました。
私は大阪生まれの大阪育ちの人間ですが、小さい頃から長野は伊那に行ってました。
やはり違うんですね。
血の繋がり、土地との繋がり、歴史との繋がり。
一度、地元を出て結婚をして姓が変わった人を、先祖代々の墓に入れるというのは、そんな簡単な話じゃないんです。
長野に行って、みんなと相談しました。
やはり、先祖代々のお墓に入れる事は、無理だという話になった。
「なんだよ、遺骨を入れた済む、簡単な話じゅないか」、と思う人も多いと思います。
でも、違うんです。
言わば、精神論にも通じる世界なんです。
これも、一つの「社会」なんです。
本家の方々だって、母の実家の周囲の人達だって、何一つ、母を嫌ったり、そんな事はありませんでした。
それは、ずっと、、、私が小さい頃から毎年、夏休みに1週間ぐらいは家族で滞在していましたが、毎年、盛大に出迎えてくれました。
それと、これとは別なんですね。
お墓の話は、母一人だけの問題では無いのです。
近々、またお墓の事で長野に行くつもりで、私も仕事がありますし、この事は母には秘密にしている事なので、直ぐに大阪へ帰りました。
それから直ぐに、母の実家から連絡がありました。
母の実家の方々が、檀家に入っているお寺さんに相談してくれたそうなんです。
そのお寺、もちろん私も母もよく知ってます。
母の兄が亡くなった時も、Kさんの時も、このお寺でお葬式をしました。
母の実家からだって、歩いて行ける距離にあります。
まあ、地元の人は「歩くなんて、とんでもない。車で行く距離」って言うと思うんですけどね(笑)
そうしたら、お寺内の墓地に空きがあるので、使ってもらっていい。という返事だった、と。
私は直ぐに長野へ向かいました。
そして、お寺の住職の方と面会。
改めて、これまでの事情と、どうして長野は伊那に墓を建てたいのか、説明しました。
住職は快諾してくれました。
そして、永代供養でいいですよ、と言ってくれました。
また、戒名も付けて頂く事にしました。
なんという事だろう。
このお寺には、もちろん母方の先祖代々の位牌も安置されている。
そんなお寺に、お墓を建てれるなんて。。。
母の実家の方々に、本当に感謝の気持ちでした。
急いで、その足で石材屋さんに向かいました。
ここでも事情を説明して、お寺にお墓を建てたいと申し出ました。
うーん。。。お墓を新しく建てると言っても、、、一緒に付き添ってくれた妹夫婦も先祖代々のお墓があるので、新規にお墓を建てるといっても、、、?、、、という感じで、私も、何がなんだか、、、みたいな(笑)
ピンキリですしねぇ。
とりあえず、手頃らしい値段で落ち着くようにしてもらい、、、下は砂利を敷き詰める形にしてもらいました。
この時、唯一の失敗が「砂利」なんです。
お墓参りをするようになってから、その砂利の上に落ちたゴミを取り除くのに、それなりに時間が掛かるのです。ホウキで掃いたら、砂利まで取ってしまったりするので。
みなさん、お墓を建てる時は、「砂利」には注意です。見栄えは良いんですけどねー(笑)
お墓の工事は、冬の間は土の中の条件が悪くなってしまうという事で、着工は春になってからという事で、なんとかお墓の事は一件落着しました。
帰り際、お寺の住職から言われた言葉。
「お母さんには、生きている間に、ちゃんとお墓がある事を伝えておかないと駄目ですよ」
確かに、その通りです。
でも、、、まだ生きている母を目の前にして、どう切り出そうか、、、
数日間の入退院を繰り返しながらも、母は自宅で普通の生活をしていました。
かなり体に負担ではあったと思うのです。
それでも、入院して病院のベッドの上よりは、遥かに精神的には安らいでいたのかもしれません。
それでも、母の体調は目に見えて悪くなる一方でした。
この頃、ちょうど介護保険制度が始まるという事で、認定士の方と母を交えて相談もしていました。少しでも自宅での生活が楽になればと思ったからです。
また、最後の最後はホスピスという選択肢もあると考えていました。
今、入院している病院から、さほど遠くない場所に、淀川キリスト教病院がありました。
ホスピスでは日本で一番有名な病院の一つだと思います。
自宅で普通の生活が出来なくなり、もう病院で寝たきりになってしまう、そんな状態になってしまったら、一般病院よりホスピス病棟がある病院の方が良いのかもしれない、と。
淀川キリスト教病院にも連絡をとって、年が明けてから一度、面接をしましょう、そんな話をしていました。
そして、2001年、大晦日がやって来ました。
母は自宅にいました。
私も妻も、母の自宅にいました。
三人、揃っていました。
三人で、年越し蕎麦を食べました。
そして、2002年の元旦。
三人で新年を迎え、三人でおせち料理を食べました。
母は新年を向かえる事が出来ました。
正月が明けて、再び母は検査も兼ねて入院しました。
これが、最後の入院となりました。
そして、もう退院する事はありませんでした。
去年の暮れ辺りから、内臓疾患の症状も出始め、体全体が満身創痍な状態を我慢していた母でした。痛み止めの薬を処方されていましたが、年が明けた頃には効き目が無くなっているようだした。
大腸辺りに、少し破れている可能性も出て来ていました。
その痛みは、相当だったようでした。
薬を貰っても、もはやその痛みを止める事は出来ないようでした。
この問題を克服するには、選択肢が二つありました。
モルヒネ系の強い麻酔薬を使うか、外科的手術で破れている箇所を治すか、です。
母は、迷う事無く「手術して欲しい」と、主治医の先生に訴えていました。
しかし、主治医の先生は、外科的手術には大反対でした。
もう、手術に耐えれるだけの力が、母には残っていなかったのです。
「手術」そのものが、命取りになってしまうのです。
2月20日、
夜勤明けだった私は、その足で母の見舞いに行った。
お昼前までいただろうか。
母は、かなり痛がっていた。看護士の方に色々と相談したけど、今以上の薬は無いのが現実だった。
母は、自分の兄が昏睡状態の中で発作を起こしながら亡くなっていった姿を見ている。私も見た。だからこそ、母は痛みを抑えるという理由で、昏睡状態になってまで生きたくは無い、そう言っていた。
だから、手術して欲しい、と。
お昼も回り、私は後ろ髪ひかれる思いで帰宅した。
遅い晩御飯を食べ、寝る準備をしていた時、電話が鳴った。
病院、主治医の先生からだった。
母が、どうしても手術して欲しい、と言う。
息子である私から、手術は諦めるよう説得してくれないか、、、という電話だった。
私は急いで病院に向かった。
そして、主治医の先生から手術について、改めて詳しい説明を受けた。
手術するには全身麻酔が必要になる。
しかし、母の体は全身麻酔に耐えれるだけの力は、まず残っていないだろう、と。
更に、母の肺癌は食道を喰い破り、半分近くを塞いでいた。
全身麻酔となると、手術中は人工呼吸器を付ける事になる。
呼吸自体が困難になりつつある母の体、そこに人工呼吸器を付けてしまうと、もう体が人工呼吸器に頼ってしまい、手術後に自発呼吸へ戻らない可能性が高い、と。
自発呼吸が出来ないなら、麻酔から蘇生させる事も出来ない。
昏睡状態を維持するしかない。
私は、母に全てを説明しました。
同じ事は、主治医の先生からも説明されていたはずです。
でも、母は譲りませんでした。
私は、最初は、この痛みから逃れる為に、「手術をして欲しい」と言っていたと思ったんです。
でも、今は違ったんだな、と分かりました。
主治医の先生は、承諾しました。
そして、外科の先生から説明を受けました。
この時、なんていうのかな、内科と外科の医者の立場というか、背負っているもの、というか、こんなふうに違うんだなぁ、と感じた。
外科は、まぁ、手術一発、切ったはった、一発勝負的な側面があると思うんです。
「手術」という、その限られた時間の中での勝負。
でも、内科は「手術」の前後も含めた、長い時間を扱う。
母の、これまでの1年の生活、色々な思いとは違う次元で、「手術」というものが進んで行くんだなぁ、と。
説明が終わり、母と病室に戻って来ました。
今しかない。
私は、母に、、、長野の伊那、母も知ってるお寺にお墓を準備している事を告げました。
それを聞いた母は、なんともいえない力が抜けたような顔をして、何度もため息をついて、、、
「よかった、、、よかった、、、」
、、、そう言ってました。
それから慌ただしく、手術の準備が始まりました。
もう、手術は今日の夜にするのです。
母は車椅子に乗り、手術室へ向かいました。
手術室に入る前、私は声を掛けました。
「がんばりや」
母は声を出さず、ウンウンと頷いていました。
手術室に入る時の、母の顔は今でも忘れません。
どうして、あんな表情が出来たんだろう、と。
あまりにも普通で平常な顔、いや、、、もっとそれ以上にサッパリしていた表情にも見えた。
あまりにも、サパサパした顔だった。
最初は、痛みから逃れる為に「手術をして欲しい」と、母は言い出したんだろう、と思っていた。
でも、この手術室に入る時の顔を見て、それから数日が経ち、母のお葬式も終わって一段落着いた時に、改めて思い直してみると、この時の母の表情が全く違う意味だったんだな、という事が凄く分かった。
手術を受けると決めた時、母はもう自分の人生にケジメをつける決意だったんだな、と。
無駄な延命処置されるぐらいなら、自分の意志でケジメを着けたかったんだろう、と。
手術したら、それで間違いなく自分の人生は終わる。
それは、説明を受け理解していた。
でも、母は、その選択肢を選んだ。
だからこそ、手術室に入る前の死に直面した人間とは思えない、あのサッパリした顔になれたんだろう、と今は凄く思う。
母が手術している間、母の実家や親戚に連絡をした。
「もう、最後になると思う」、、、と。
ホスピスへ入る為に予約していた面接もキャンセルした。
夜。遅くに手術が終わった。
私の妻や、妻の御両親も駆けつけてくれて、外科の先生から術後の説明を受けた。
手術自体は、滞り無く成功した。
母は、なんとか手術には耐えたようだった。
明日は昼から主治医の先生と話をする事になり、ICUにいる母を窓ガラス越しに確認してから帰宅しました。
2月21日
午後、主治医の先生と面談した。
麻酔から蘇生させる処置をしようとしているが、自発呼吸が出来ない状態が続いている事を告げられた。
それは、最初から主治医の先生が一番懸念していた事態だった。
そして、先生は言葉を続けた。
「このまま人工呼吸器を着けたままにするのか、外すのか。決めて欲しい」、と。
なんたることか。
ここまできて、、、
生死の選択を、私が下す事になるのか。
なんてことだ。
黙っている私に、先生は言葉を続けた。
「どちらの選択をしても、それが正しい選択ですよ」、と。
病院からの帰り道。
私は考えていました。
うーん、考えていたのかな、実は真っ白になってて、何にも考えてなかったのかもしれない。
でも、答えは決まっていた。
悩まずに、、、その答えしか浮かんで来なかった。
自宅に帰り、妻と晩御飯。
色々と話す。
なんか、、、泣けてきた。
2月22日
再び、主治医の先生と面談。
私は直ぐに言いました。
外して下さい、と。
私は、母の死を宣告したんです。
母は、無駄な延命など望んでいなかったはずです。
それを今、口にして言えるのは私だけです。
、、、そんな気持ちは、強くあった。
でも、それは、こういう選択をとった自分自身への言い訳に過ぎないのではないか。
自分で逃げ道を作っているような、そんな、どうしようもない気持ちだった。
外して下さい、、、と言った後も、それが最良の選択だったのか、何一つ確信なんて無かった。
今でも少なからず、そんな気持ちは心の奥底にある。
主治医の先生は、しばらく考え込んでいました。
そして、ちょっと意外な事を言いました。
「今は全く、おしっこも出ない状態で顔も凄く浮腫んでいて可哀想だから、点滴を最低限度の量にしましょう」、、、と。
この時、母は4,5つぐらいは点滴をしていたと思います。
とにかく母の命を繋ぐ為に、色々な薬や栄養剤等が投与されていたはずです。
それを、必要最低限度にしましょう、と。
結果、2つぐらいになった。
今になって思うと、この時、主治医の先生は、母にとって一番楽で優しい「死」を迎える、医療で許された中の最善の方法を考えていたんだと思います。
私は一つ、先生にお願いをしました。
ICUに入ったままの母を、一般病棟に移して欲しいと。
だって、手術は成功したんだもの。
もし、このまま、もし、ICUが最後の場所になってしまうのは、なんだか悔しかった。
せめて、一般病棟へ移してあげたかった。
母は、人工呼吸器と共に病室へ戻って来た。
先生やら看護士の方々数人で、母を抱えて病室のベッドに移した時でした。
私は、「帰ってきたよ」と母に声を掛けました。
その時です。
母が目を開けて、私を見たんです。
あっ、、、と思った。
でも、また直ぐに目を閉じてしまった。
母を病室に移し、少し落ち着いたので、私は区役所に向かった。
以前から母に頼まれていた申請をする為でした。
でも、今さら申請しても、もう母には何の役にも立ちません。
でも、、、
やはり、その権利が得られた母なのだから、このままではやっぱり悔しいな、という気持ちもあったので、申請する事にした。
そして、長野の伊那、お寺さんにも連絡した。
住職に、もう母の最後が近い事を伝えた。
その日の夜、会社帰りの妻が病院に寄って、私の晩御飯を届けてくれた。
そして、何時頃だったろうか。
病室でぼんやりしていたら、看護士の方が入って来られて、何気に、、、
「今夜は泊まっていかれます?」、って聞いてこられた。
私は、不意な質問だったので、特に何も考える事なく、反射的に「はい?」と答えてしまった。
ま、いいか。
そんな気持ちで、病室に泊まる事にした。
母は時折、腕を動かしていた。
まるで、「もういいから、はよ帰り」というような仕草だった。
1,2時間おきぐらに、母の”たん”が喉に絡んでくるので、看護士の方を呼んで吸引してもらう。それ以外は、とても静かで、時間が止まっているかのような、そんな夜だった。
2月23日
日付が変わった。
、、、といっても、何時変わったのか、よくわからない。
時折、看護士の方が訪れるのと、母のたんを吸引してもらい以外、とても静かだった。
母も、もう手を動かすような仕草は見受けられなかった。
4時を回った、朝方頃だっただろうか。
看護士の方が、何やら機械と共に。病室へ入ってきた。
その機械を見て、私は、あっ、、、と思った。
それは心電図や、母の生命を確認している装置だった。
きっと、ナースセンターの方でモニタリングしていたのだろう。
それを病室に持って来た。
そして看護士の方は、私にこう告げました。
「もし御連絡つくようなところがあれば、早い目に連絡してあげて下さい」、と。
あぁ、、、その「時」が来ようとしているのか。
私は急いで、自宅の妻や親戚に連絡をした。
病室に戻り、母の顔を眺めていた。
静かに眠っている。
何度か看護士の方が来られて、色々と様子を確認されていた。
それから、1時間が少し過ぎた頃だろうか。
看護士の方が装置の確認や、母の体に触れ(脈を確認していたのだろう)、私に言いました。
「もう、最後だと思います、、、今、先生をお呼びしていますので、、、」、と。
しばらくして、当直の先生がやってこられた。
装置の確認はもちろん、母の脈や心臓の鼓動音、眼球等々、一つ一つ確認されていた。
「、、、ご臨終です」
先生は手を合わせていた。
看護士の方は泣いてた。
私は、先生と看護士の方に礼を言い、母の頭を撫でながら、「おつかれさん」と声を掛けた。
悲しくはなかった。
不思議と凄く冷静だった。
昨夜からの、時間が止まったような静かな時間が、まだ私の中で続いていた。
あぁ、人一人の命が、今、この瞬間、消えたのだ。
私の目前で消えたのだ。
私は改めて、親戚等に連絡をした。
そう、、、私は、ここから最後の仕事が残っている。
ちゃんと、やらなくっちゃ。
母が病気で入院している事は。母の近所に住む方々にも内緒だった。
隣の人にでさえ、秘密にしていた。
とにかく、周囲に心配を掛けたく無い、というのが理由だった。
母の入院中、母が育てていた観葉植物の水やりに訪れた時も、近所の人には「田舎(長野)に帰ってる」という事になっていた。
しかし、唯一、全ての事情を知っている方がいました。
母の住む団地の管理人さんです。
私は、その管理人の方にも連絡をとりました。
直ぐに町内会の方で、お通夜と告別式の準備、葬儀屋さんの手配をして下さる事になった。とても助かりました。
慌ただしく連絡を取った後、病室に戻ると主治医の先生も駆けつけてくれてました。
主治医の先生は、確か、、、
「力及ばず、、、」、、、というような言葉を私に言ったと記憶している。
そんな事はない。
先生をはじめ、看護士の方々も、とても良くして下さった。
もし、最高の医療を受ければ完治するという病気なら、もっと沢山の選択肢はあったと思う。
でも、母の選択肢は最初から決まっていた。
どうする事も出来なかった。
そんな中で、最善の選択肢を探してくれたと思ってます。
そして、何より母が先生のことを凄く信頼していた。
患者の気持ちは、患者本人にしかわからない。
血の繋がった息子でも、そこには近付けない。
患者と医者、一対一の信頼関係が成り立っていた。
それが、一番の救いだった。
この病院に入院し、主治医の先生と出会えた事に感謝したいと思う。
それから、妻と妻の御両親も駆けつけてきた。
そして、親戚の方も、、、
その後、直ぐに葬儀屋さんが来られた。
そして、直ぐに母の亡骸は移動用のペッドに移されて、住み慣れた我が家に戻る事となった。
最後は、主治医の先生や入院していたフロアの看護士の方々が見送りに、外まで出て来て下さった。
家に戻っても、さあ、大変。
人を横に寝かせたまま、エレベーターに入るわけがありません。
家は3階です。
葬儀屋さんや私達で、母の亡骸をベッドに固定させて、一端、縦にしてエレベーターに入れて。
なんとか、戻って来た。
母の亡骸は、普段、母が寝室にしていた部屋へ。
それから、葬儀屋さんと打ち合わせだ。
もちろん、私が「喪主」になるのだ。
でも、何をどうすればいい?
とにかく、分からない事が多いのですが、とても親切な葬儀屋さんで助かった。
と、同時に団地の管理人さんも訪れて、集会場でお通夜の準備も始めてる、との事。
色々と助かります。。。
行政上の色々な事柄は、葬儀屋さんが一通り手続きしてくれるので、打ち合わせが終わった段階で、とりあえず私達は自宅に一度戻る事にしました。
この2日間、まともに寝てないし風呂にも入ってない。
とりあえず、シャワーを浴びて着替えてから、戻る事にした。
途中、長野は伊那、お寺さんにも連絡。
母が亡くなった事を伝え、葬儀屋さんの連絡先も伝えた。
住職には、母の戒名をつけてもらわなくっちゃ。
戻ると、母の亡骸は集会場に移動していた。
もう、お通夜、そして告別式への準備も、一通り出来ている感じだった。
夜遅くに、長野は伊那から、母の実家の方々も到着。
慌ただしく、何かを考えている余裕もないまま、2月23日という日が終わろうとしていました。
2月24日
快晴だ。
母の戒名も葬儀屋さんに届いたようで、告別式でお世話になるお寺さんとの打ち合わせも滞り無く進んだ。
告別式。
私が直接連絡したのは、団地の管理人さん以外は、ほぼ全て「身内」の人達ばかりだ。
それ以上となると、だいたい電話番号なんて知らないし、そもそも、そんな事をしている時間も無かった。
それに、母は自分が病気の事を、近所には内緒にしていたし。
それでも、告別式には近所の方々や、私の小学校・中学校時代の同級生等、沢山の方々が集まってくれた。
正直、少し驚きました。
同時に、凄く嬉しかったです。
でも、まぁ、母の事だから、こんな大層な葬式は止めてくれ、と言いそうなんですが(笑)
母の出棺の際、突然、葬儀屋さんから「みなさんに御挨拶されますか?」と言われて、何か喋った。
何、喋ったかな、、、あんまり覚えてないや。
あぁ、なんかしんみりするのは嫌だったから、そんな後ろ向きな話はしなかったと思う。
そして、火葬場へ。
数時間後には、母の体は骨と灰になった。
Kさんが亡くなった時と同じ感覚だった。
ほんの数十時間で、肉体的にも生きていた人が、あっという間に骨と灰だけになってしまう。
不思議で不思議で、仕方が無かった。
夕方前には全ての事が終わった。
妻は自宅に戻り、私と長野の人達は、母が暮らした団地で泊まる事にした。
この前、つい先日のお正月にも、母の家で私と妻で泊まった。
でも、今日は、私が結婚するまで生活していた部屋で、一人で寝る。
布団に入り、天井を眺める。
あまりにも見慣れた天井だった。
ここの家で、結婚するまで生活していたんだから。
そして、自分の記憶の中にある、母の人生がフルスピードで思い浮かびは消え、まるで走馬灯のように止めども無く流れ始めた。
たまらない気持ちになった。
急に悲しくなってきた。
「死」というのは、もう、それ以上の人生を歩めないのだ。
そこで、全てが終わってしまった。
この家を普通に歩く事さえ、そこの蛇口をひねる事さえ、何一つ、出来ないんだ。
あぁ、もう、母は何一つ、出来ない。
ほんの2ヶ月前まで、ここで暮らし、ここで食事し、ここでお風呂に入っていたのに!!
たまらなかった。
胸が締め付けられた。
私は直ぐに、妻に電話した。
明日、朝早くには長野の人達は帰ってしまう。
妻が戻ってくるまでの時間、私はこの家で一人になってしまう。
一人では、とても耐えれない、と感じてた。
だから、明日は出来るだけ早く来て欲しいと、電話した。
上手く説明できないけど。
「死」が悲しいんじゃない、「人生」が止まった事、それを実感した時、凄く悲しかった。
2月25日
長野の方々を見送った後、しばらく一人になった。
改めて、家の隅々を見渡していた。
もう住む人を失った家なんだなぁ、と。
そんな時、呼び鈴が鳴った。
妻にしては早いな、、、
出ると、よくわからないセールスマンらしき人物。
なんか、仏壇がどうのこうの言ってくる。
そんなもん、知らん。
即刻、お断りする。
嗅ぎ付けて来るもんなんですね。
みなさんもご注意を。
それからほどなく、妻と妻の御両親が到着。
葬儀屋さんの方も来られた。
母の遺骨やら位牌等一式を、私達の自宅へ移動した。
届いた仏壇と共に、母の遺骨を祭った。
母のお墓が完成するのは、春を過ぎてから。
今はまだ地面の下が凍っていたりするので、工事が春先からでないと出来ないのだ。
一段落着いたところで、私達は母が入院していた病院に向かった。
諸々の清算もそうだし、慌ただしく病院を後にしたので、ちゃんと1年間お世話になったお礼をしてなかった。
主治医の先生は診察で会えなかったけど、母が入院していた階のナースセンターへ行って、お世話になった挨拶をした。
もう、この病院へ来るのも、これで最後なんだなぁ、と。
それからの数日間、母の家の整理に追われた。
もう、この家に住むべき人はいない。
荷物を整理して、引き払わなくてはいけません。
ガランとして部屋を眺めた。
同じ大阪市内に住んでて、区が違うだけなんだけど、もうこの町にも来る事が無いんだなぁ、、、自分が通った保育園や小学校に中学校がある、この町、、、何か繋がりが消えてしまった感じがして、また寂しくなった。
更に数日後、フト思った事があった。
母の家は引き払ったけど、近所には母と仲良くしてくれた方々、私も小さい頃からお世話になった人達が住んでいる。
最後に挨拶しておかなくっちゃ、、、
お葬式にも沢山と来て下さったけど、ちゃんと一人一人に挨拶なんて出来る状態じゃなかったしね。
母が住んでいた団地はもちろん、近所の団地や住宅等、記憶を頼りに歩いて回った。
それから、春も終わりに近付いた頃、母のお墓が完成したという連絡が入った。
私達家族や親戚の方と共に、長野は伊那へ向かった。
お寺に着くと、立派なお墓が完成していた。
やっと、母の遺骨を返す時が来た。
母は生まれ故郷に帰って来た。
良かったなぁ、と思った。
心底、これで終わったなぁ、と思った。
2つある位牌のうち、1つはお寺で納めてもらう事にした。
その位牌、母の実家の先祖代々の大きな位牌の横に置かれていた。
それから毎年、母の命日の2月とお盆に、お墓参りへ行くようになった。
が、、、特に2月は過酷だった。
極寒だった(笑)
墓石に掛けた水が、なんと直ぐに凍ってシャーベット状になってしまう。。。
これでは、まともに墓掃除なんて出来やしない。
お盆はお盆で、一度、凄い渋滞に巻き込まれて、大変な目にあった。
そんな感じだったので、「命日」とか「お盆」に拘る必要も無いよね、と。
どうせ行くんだったら、季節の良い時期に行って、ゆっくり温泉と美味しい食べ物を楽しみに行こうか(笑)、なんて、少し目的が脱線した感があるのですが。。。
長野は伊那、母の実家に寄り、お墓参りをし。宿泊はお隣の駒ヶ根で温泉に。
温泉宿は、ここ数年、同じ宿にしているので、宿の方々とも顔馴染みになった。
そして、行く季節によって、何かないかな、、、と。
我が家の年間行事の一つとして定着する事になりました。
2012年2月23日
母が亡くなった10年目になった。
そして、母の兄夫婦の長男のKさんが亡くなって11年目。
今年、そのKさん御夫婦の長男が、名古屋の大学を卒業して地元に戻り、伊那で就職を決めたと連絡があった。
いやぁ、、、月日の流れを凄く感じた。
そうか、地元に戻ったんだねぇ。
田舎の長男という立場、色々とあると思うんだ。
名古屋の大学に行き、そのまま名古屋で就職するという選択肢だって、大阪や東京へ、という選択肢だって、若いんだから色々とあったはずだと思う。
でも、地元へ戻って来た。
社会人1年目、頑張っているそうだ。
そして、長女は東京の大学へ行っている。
二人共、凄いね。
今年も、またお墓参りに行くと思う。
まだ、いつ頃行くとか決めてないんだけど。
特に、秋はいいね。
食べ物も美味しいし紅葉も綺麗だし、温泉が合う気候ってのもあるけど。
でも一番の醍醐味は、、、これはタイミング次第なんだけど、、、松茸ねっ!!
タイミングどんぴしゃだと、すんごいのですよ(笑)
あと、伊那はね、毎回、「かんてんぱぱ」に寄っていく。
そして、以前、「砂場」という、有名なお蕎麦屋さんがあった。
東京で有名な蕎麦屋さんなんだけど、のれん分けした店でした。
でも、3年ぐらい前かな、閉店しちゃってねー、ちょっと残念。
まあ、なんだか、目的が食べる事になって来てますけどね(笑)
大阪生まれの大阪育ちの私にとって、物心つく頃、、、というか、つく前から母の実家にはよく遊びに帰っていた。
長野は伊那、あの場所、あの風景は、私にとって大切な田舎なんです。
コメント
本当に文章が長かったです(爆)、最後まで拝見しました。涙が出ました。これからの人生、もう2度と、死ねだの死ぬだの、言わないです。
>まめさん
だから、長いって前置きしてあるのに(笑)
まぁ、10年前の事ですし、今は良い思い出です。